里亜さんの質問は、いつの時代の「争い」なのかわかりません。私どもの埋蔵文化財センターは、文字に書かれた歴史を研究するところではなく、土の中に埋まった、昔の人々が残した物を発掘調査して、どちらかというと文字に書かれていない歴史を研究する(考古学という学問をする)ところです。そこで、文字が使われる前(古墳時代以前)のことについてお答えします。みーさん、ペリィ〜さんから弥生時代の戦争についての質問がありますので、ここでは弥生時代の戦争を取り上げることにします。
縄文時代には、戦争があったとする説となかったとする説の両方があります。石のやじりが刺さった人骨が発見されていますが、戦争で傷をおったのか、殺人事件だったのかは区別がつきません。弥生時代になると、戦争をしていたという証拠がいくつか出てくるので、弥生時代に戦争をしていたことはほぼ間違いないと思われます。
なお、文字が書かれている時代の戦争でしたら、他のところ(例えば奈良時代から江戸時代の展示をしている博物館など)にお問い合わせ下さい。
《戦争があったことを示す考古学的な証拠》
戦争の証拠といえるものは、いくつかあります。最も確実な証拠は、殺されたり、傷つけられたあとのある人骨が、大量に発見されることです。殺されたあとのある人骨が1体だけの場合は、戦争なのか殺人事件なのか区別がつきません。人を殺すための専門の道具(武器)が発見される場合も戦争の証拠となります。また、堀や壁などの防御(ぼうぎょ)する施設(しせつ)を持つムラや町がある場合も、戦争が起こったと考えられます。
《弥生時代に戦争があったという証拠》
弥生時代に戦争があったという証拠を次にあげてみます。
・ 弥生時代になると、九州の北部から伊勢湾沿岸の地域では、非常に高いところにムラを作ったり、ムラに堀をめぐらせたりしています。これは、戦争で敵が攻めてきた時に、防御ができるムラと考えられています。
・ このようなムラとともに、縄文時代よりも大形の石のやじりが多くなります。これは、狩りに使う弓矢とは別に、人間を殺す武器としての弓矢があったことを意味しています。
・ 大陸から、銅剣(どうけん)、銅矛(どうほこ)、銅戈(どうか)あるいは鉄剣(てっけん)など金属製の武器が伝わってきました。戦争によって傷ついた人骨が、一つの遺跡から大量に発見されてはいませんので、決定的な証拠とはいえませんが、武器の破片が刺さった人骨は、多くの遺跡から発見されています。
・ 「後漢書東夷伝(ごかんじょとういでん)」「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」といったこの頃の中国の書物にも、戦争がおこっていたことが書かれています。
《弥生時代に戦争がおきた原因の証拠》
「その原因で争い(戦争)が起きた証拠」というのは、考古学の発掘調査では、発見されていません。また、今後発見されるという見込みもあまりないと思います。しかし、考古学の発掘調査で判った様々な事実を組み合わせて、戦争が起こった原因を考えることはできます。弥生時代には、水田を作って本格的な米作りが始まります。米作りによって食生活が安定すると、人口が増えます。人口が増えるとさらに水田を広げる必要がうまれ、となりあったムラの間で土地のうばいあいが始まります。また、水田の場合は、土地のうばいあいだけではなく、水田に引く水のうばいあいも起こります。このような土地や水のうばいあいが戦争へと発展したと考えられます。また、農業をはじめると、作物のでき具合によって、富を多く持つ者とそうではない者の差が生まれます。やがて、富のうばいあいが起こり、戦争へと発展します。他にもいくつかの原因が考えられますが、おおよそここに述べたようなことが原因で戦争が起きたと思われます。
|