■上侍塚古墳・下侍塚古墳==写真館==
栃木県大田原市にある遺跡、上侍塚古墳・下侍塚古墳の過去の調査と写真をご紹介します。
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〔目次〕(このページの記事)
1975年12月の下侍塚古墳発掘調査写真
1967年ころの上侍塚古墳・下侍塚古墳の写真
1920年代前半(大正)ころの上侍塚古墳・下侍塚古墳の写真
■1975年12月の下侍塚古墳発掘調査写真
昭和50(1975)年12月3日から27日まで、湯津上村教育委員会が、下侍塚古墳の古墳外周部分で、古墳をとりまく堀である周溝(「周濠」・「周堀」ともいいます)の発掘調査を行いました。
当時の写真をデジタル化しましたので、代表的な画像をここでご紹介いたします。劣化したポジフィルムから色を復元しましたが、汚れが残っている部分もあることをご了承ください。
栃木県那須郡湯津上村が当時の地名で、現在は栃木県大田原市湯津上です。大田原市教育委員会の写真画像を掲載しています。
更新日 令和4(2022)年8月3日(水)
下侍塚古墳平面図 (湯津上村教育委員会『下侍塚周濠発掘調査概報』1976より)
(下の各写真は、選択すると拡大できます)
前方部東側の調査
前方部南東隅の斜面で確認された葺石。古墳の斜面を覆うように敷かれた石です。南側から見ています。
前方部の南東隅の東側で確認した周溝。古墳の周囲に掘られた幅広い溝の底面が、細長い調査区(トレンチ)の底に見えています。
前方部の東側で確認した葺石と、墳丘の東裾。手前の平らな部分が周溝の底面です。
写真提供 大田原市教育委員会
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くびれ部東側の調査
くびれ部東側の調査区を、北東側から見ています。右手前が後方部、上が前方部です。
くびれ部東斜面で確認された葺石と、墳丘の東裾部分を、南側から見ています。
くびれ部と前方部の東側で周溝を調査するトレンチを、後方部から見ています。
くびれ部東斜面で確認された葺石。写真の上側が、周溝の底面です。
写真提供 大田原市教育委員会
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後方部東側の調査
左側が後方部の南東隅で、葺石と、墳丘の東裾部分が見えます。東側から見ています。
後方部東側の周溝の外側斜面を、北から見ています。写真の右方向が、墳丘のある側です。
後方部の東側周溝を調査するトレンチを、東側から見ています。墳丘の東裾部分に葺石が見えます。
写真提供 大田原市教育委員会
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後方部北側の調査
後方部の北側で周溝を確認するトレンチ調査の様子。写真の奥に葺石が見えています。この次に紹介する土師器破片が、ここで出土しました。土師器(はじき)は古墳時代の土器です。
後方部の北側で周溝の底付近から出土した土師器の破片。おそらく壺形土器と考えられます。
後方部の北東隅部分で確認した墳丘の裾。手前の平らな部分は北東側周溝の底面で、左上が墳丘です。
写真提供 大田原市教育委員会
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後方部西側・前方部西側の調査
写真奥が後方部の北西隅で、墳丘の裾に葺石が見えます。手前が周溝です。
後方部の西側で確認した墳丘の裾部と葺石。西から見ています。写真の奥が墳丘です。
前方部の南西隅の西側で確認した墳丘の裾部と葺石。手前のトレンチ底の、水が見える部分が周溝です。
写真提供 大田原市教育委員会
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前方部南側の調査
前方部の南西隅を、北東側からみた様子。手前が墳丘です。左側をよく見ると、葺石の上面部分が少し見えはじめています。
前方部西半の南側で確認した墳丘の裾部と葺石。南から見ています。葺石の左半分を外して下を調査しています。写真の手前が周溝です。
前方部西半の南側で確認した周溝の土層と葺石。南東から見ています。転落した葺石が流れ込んでいるようです。
前方部東半の南側で確認した墳丘の裾部と葺石。南から見ています。写真の奥が墳丘で、葺石がよく見えます。
前方部南側のトレンチ調査で葺石を見学する様子。来訪者はどなたでしょうか? 御存知の方がおられましたら、教えてください。
前方部の南西隅で撮影した調査関係者の白黒写真。地元の皆様、元東京国立博物館の三木文雄先生、県教育委員会と村教育委員会の職員、東京や宇都宮の大学生が参加しました。
写真提供 大田原市教育委員会
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■1967年ころの上侍塚古墳・下侍塚古墳の写真
今から半世紀以上前、1967(昭和42)年ころのカラー写真をご紹介します。森浩一先生の『古墳の発掘』(中公新書・1965)で下侍塚古墳が "日本一美しい古墳" とよばれてから、約2年後の様子がわかります。カラー写真が一般的になり始めた当時の、貴重な写真です。
同年代の下野薬師寺跡のスライド写真の特徴と比較した結果から、1966(昭和41)年1月よりも後で、1968(昭和43)年11月よりも前の写真と考えられます。この中には、田植えの様子から5月頃と推定できる写真や、スライドの外周にある「APR67」の文字から1967(昭和42)年4月に現像したことがわかる写真も含まれています。
フィルムがかなり汚れてる部分もあることを、ご了承ください。写真の提供は栃木県文化振興課です。(埋蔵文化財センター保管)
更新日 令和4(2022)年6月29日(水)
下侍塚古墳の1967年ころの写真
南からみた下侍塚古墳。周囲の建物が茅葺きです。苗が植えてある様子からみて、1966(昭和41)年5月頃、または1967(昭和42)年5月頃と推定できます。
南東からみた下侍塚古墳。1967(昭和42)年4月に現像された写真です。
東からみた古墳。今よりも松が細かったことがわかります。1966年頃には柵が回っていたようです。
東からみた下侍塚古墳。1967年4月に現像された写真です。
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上侍塚古墳の1967年ころの写真
前方部を南から見ています。ポジフィルムの特徴から、1966(昭和41)年1月-1968(昭和43)年11月の間の写真と推定できます。
前方部を南西から見ています。前方部の南側が水田になる前、まだ畑地だったころの様子が見えます。1967(昭和42)年4月に現像された写真です。
上侍塚古墳を北西から見ています。苗が植えてある様子からみて、1966年か67年の5月頃と推定できます。
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■1920年代前半(大正)ころの上侍塚古墳・下侍塚古墳の写真
1929(昭和4)年に栃木県が発行した「栃木縣に於ける主要史蹟名勝天然紀念物概要」に掲載された写真です。1926(大正15)年に
「栃木縣史蹟名勝天然紀念物調査報告」が出され、その3年後に概要版も刊行されました。写真はやや写りの良い概要からの転載です。
墳丘周辺の様子や松の大きさや樹勢の違いも興味深いです。
更新日 令和6(2024)年3月21日(木)
上・下侍塚古墳の1920年代前半(大正)ころの写真
上侍塚古墳を北西から眺めています。現在、古墳の西側と南側は水田になっていますが、この頃はまだ畑で地表面も現在より高かったことが分かります。
下侍塚古墳を南西から見ています。前方部は現在よりも松の木が少ないように見えます。手前に砂利道の国道294号線(この頃は県道)がわずかに見えます。
「栃木縣史蹟名勝天然紀念物調査報告」第一輯は国立国会図書館のデジタルコレクションで見られます。
「栃木縣史蹟名勝天然紀念物調査報告」第一輯(外部リンク)をごらんください。
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